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佐賀県唐津に寿司の名店「つく田」がある。
親方の松尾雄二さんとは同年輩で、
同じような文化の下で育ってきた。
はじめてお店を訪ねたその日から気があい、
それ以来、唐津で、東京で、と何度か飲んできた。
ときには、朝までバーで飲み明かしたこともあった。
そんな親しい友と、晩夏の東京で数年ぶりに一献かたむけた。

待ち合わせは、日本橋「室町砂場」。
やはり一流の寿司職人とは、東京の蕎麦屋でも歴史があり、
ぼく自身が大好きな一流店がいい、と思った。
神田である。
江戸である。
蕎麦である。
松尾さんと飲むにはふさわしい店である。
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さて。
「室町砂場」は「天ざる」「天もり」発祥の店だが、
蕎麦をたぐる前に、簡単な肴をつまみながらの酒。
これがたまりません。

必ず頼むのが、アサリの時雨煮。
身がふっくらとやわらかく、上品な出汁とぴりっとした生姜の風味がいい。
関東の醤油の美味さがまた、これらの味わいを引き立てる。
お通しとして出てくるときもあるが、
これは単品の肴として頼みたい。

まずは、サッポロの赤星でのどを潤し、
アサリの時雨煮をひとくち。
続いて、菊正宗のぬる燗を二合。もちろん本醸造。
おもわず、ため息。

子どもの頃、アサリはそれほど好きでなかったのに、
おとなになると、どうしてこれほど染みるのか。ほんとうに不思議。
ぼくが生まれ育ったのは大阪の泉大津という大阪湾に面した町だ。
1960年代前半までは、まだ白砂青松の浜が続き、
家から歩いて10分ほどの海で、兄が獲ってきたアサリを、毎朝、味噌汁の具にしていた。
そのころは、アサリの苦さが嫌で、汁だけ飲んでいた覚えがある。
そういえば、牡蠣フライも好きでなかった。
あの肝の黒いところが気持ち悪かった。
たぶん貝のもつ独特の苦みが、まさに「苦手」だったのだろう。
ところが、泉北コンビナートができて、海は埋め立てられ、
海岸線はずっと遠くに行ってしまい、もちろんアサリも忘れ去られてしまった。
そんなかなしい話をしながら飲んでも、
酒を美味く感じるのだから、ひとの感覚というのは妙なものだ。

調べてみると、日本のアサリ生産量は、愛知県が第一位だ。
たしかにあの海岸線はアサリがとれそうな感じがする。
かつて大阪湾もあんな風だったのだが……。
アサリの生産量は、
1960年代後半から80年代前半まで12万トン~16万トンの間を推移し、
比較的に安定していたという。
ところが80年後半から急減し、いまは、ピーク時の40分の1だそうだ。
この数字をみて、あらためて驚いた。
もっとアサリはたくさん獲れていると思っていたのだが、
自給率もかつて(1988年頃まで)は100%だったのに、いまは10%だという。

なぜ、こんなにアサリが減ったのか。
海水温が上がり、干潟が減り、海がきれいになりすぎてプランクトンが減ったからと聞いた。
そういえば、かつて大阪でも下水が完備されていなくて、
人糞などは海に流されていた。きれいな海ではなかった。
肥ツボに溜まったものは地下水に染みとおって、海に流入していた。
でも、それが適度な栄養を海に与えていた。
昨年、今年の酷暑や豪雨。
きれいになりすぎた海。
極端にはしる気候、そして人間。
はたして「きれいすぎる」この社会(その割に、忖度や賄賂、差別がはびこっている)は、
ぼくらにとって幸せなのか。
干潟を失っていくことは、「縁側」をなくすことであり、「あわい」の消失だ。
「いい加減」が失われるということは、
自然と人間のバランスが崩れることを意味する。
はたしてAIが日ごとに進化していくことは、幸せなのだろうか。
AIには悪意がない。そして倫理もない。

「いい加減」とは苦みと甘みをあわせて知ることではないか。
それはアサリの美味さを知ることに似ている。
1か0ではない。
アサリの味が、おとなになってわかる、というのは大切なことだ。
苦みと甘みは矛盾しない。
それらを包摂することが「おとなになる」ということ。
日本人は、どこかで「おとなになる」ことを勘違いし、
適当に「まあ、エエやないですか」と長らくやってきてるような気がする。
ほんとうの「いい加減」を忘れて、「エエ加減」で生きてきたのではないか。
そんなこんなを、アサリの時雨煮をつまみ、
菊正宗本醸造のぬる燗を飲みながら、松尾さんと語り合っていると、
いつのまにか黄昏のひかりが蕎麦屋のなかに入ってきていた。
まさに昼と夜のあわいの頃合いだ。

ぬる燗、たそがれ、汽水域。
干潟、サッポロ、本醸造。
「ほどの良さ」が長い渚のような関係をつづけられる秘訣なのかもしれない。
いくら世界がシビアでも、
いやシビアだからこそ、そういう朋との酒は美味い。
後味のいい、爽やかな酒だ。

「つく田」の松尾さんと
「朋あり。
遠方より来たる。
また楽しからずや、だね」
とアサリがつぶやいた。
