
すぐ近くに漁港と小田原市漁協がある。

拙著『漁師になろうよ』の取材時に、
こちらの漁協で漁師カッパの上下を買い、
米神(こめかみ)の巨大定置網での漁に同行させてもらった。
そのときインタビューした漁師は、
いま定置漁の漁労長をされている。
たしか、2000年の初冬だった。
漆黒の闇につつまれた午前一時半に港を出発。
夜明け前に港にもどり、
漁師がつくってくれた魚料理を食べさせてもらったが、
その美味しさが忘れられなかった。

小田原の魚はうまい、という定式がこのときでき上がり、
東京の慌ただしいリズムに疲れると、
この浜に、ふっと息抜きに向かうのだ。
*
通りをみどりの風が吹きすぎていく。
梅雨入り前の小田原は明るい陽光にあふれていた。


漁港の周りにはたくさんの食堂がある。
そのうちの一軒「やまや」に入った。

ぼくの小説『江戸酒おとこ』の舞台となった
浅草の酒蔵「山屋」と同じ名前である。
何かご縁があるに違いない。
暖簾をくぐって、店に入る。
カウンターのみの小さな店は、女性4人で切り盛りしていた。
オーダーしたのは「鯵セット2200円」。
アジのたたき丼に、アジ・フライ2枚、アジ・コロッケがついている。
まずは、ビール。
もちろんサッポロの赤星だ。
暑い季節にぴったりのテイスト。
さわやかな苦みが、舌の奥をキュッと引きしめてくれる。

アジのたたき丼が出てきたので、まずは醤油も何もつけずに味わう。

これは、日本酒に合わせたい。
店には神奈川の酒を置いてあるという。
さっそく出してくれたのは、「隆(りゅう)」という純米吟醸酒。

2025年度醸造の生酒。槽(ふね)しぼり。足柄上郡山北町の川西屋酒造店の逸品で、稀少な銘柄だという。発酵を終えたもろみを酒袋に入れ、
ゆっくりと搾った無加熱処理の酒。

するするした飲みくち。
シュッと引き締まった舌ざわり。
雑味のない、クリアさ。
ドライな中に、ほのかに米のうま味を感じる。
フレッシュで淡麗な味わいは、獲れたてのアジのたたきにじつによく合う。
* * *
つづいて、アジ・フライ。
さくっとした衣の中にあるアジは、まったく臭みがない。
小田原の海がそのまま魚になって、それを揚げました、という感じ。
いままで食べたアジ・フライの中で最上だ。
よい酒は水に似ていると言われるが、
よい魚の味も水に似ているのかもしれない。
感動したのは、初めて食べたアジ・コロッケ。
あたたかく朴訥としたジャガイモ。
アジの滑らかで控えめな風合が、絶妙のハーモニーを生みだしている。

「隆」はフライもコロッケもその味をうまく引き立てた。
*
アジのたたき、揚げものたち、
そして、「隆」も「サッポロ赤星」も、それぞれ謙虚で品がいい。
決して「おれが、おれが」と声高に叫ばない。
背伸びをしない。ウソを言わない。
近年、日本でも世界でも、間違った自己主張や権威をかさに着た空威張りなど、
誠実さと遠く隔たったものを見せられつづけている。
この店のカウンターに立つ女性たちは、目の回るほどの忙しさなのに、
自然な笑みを浮かべている。
客も「ごちそうさま!」と礼儀正しく挨拶して帰っていく。
当たり前が、あたりまえとして、ここにある。
小田原の魚と酒、そして人は、職人(プロフェッショナル)的な直球勝負を、
ひたすらフツーにこなしている。
そんなスタンスがとても好きだ。
*
自宅からこんな近くに、
あかるい海と空があるのだ。
きれいな風が吹いているのだ。

小田原のアジが教えてくれた。
