エーリッヒ・フロム著『自由からの逃走』。
50年ぶりの再読。感動の深さが違った。
1970年代半ばの大学生のころは、
(日本で)戦争なんて現実感のない話だった。
しかし、いま、ファシズムと排外主義の空気が蔓延し、
参院選では、政党ともいえぬカルト集団がたくさん議席をとってしまった。
フロムはこんなことを言っている───
ルネッサンスや宗教改革などで西欧社会は、
個人の自由獲得の歴史。
しかし、「自由」になればなるほど、
その裏返しの「孤独」と「不安」を恐れるようになった。
人びとはそんな状況から逃れようと、
自由を放棄し、権威主義や暴力、機械的同調に
身をゆだねようとする。
*
本が出版されたのは1941年。
ナチズムが台頭し、ヨーロッパでは第2次大戦がはじまり、
12月に日本は真珠湾攻撃をし、アメリカとの戦争がはじまった年だ。
いま、日本のTVを見れば、どの局にも同じような忖度芸人。
弱い者イジメと追従笑いの「バラエティ」を演じている。
CMには、奇妙なモノや人が出て、ドタバタ騒ぎたてるだけ。
知的レベルの低い三流クオリティー。
よくもこんなCMが堂々と流れるものだ、と思うが、
クライアントがバカなのだから、仕方がない。
広告主の顔色ばかりうかがう広告制作者にも、夢がないのだろう。
*
SNSには中傷や暴言。
嫉妬と憎悪に満ちた反知性の世界に
日本人はハマっている。(もちろんアメリカのトランプなどの影響)
「空気」を読んで、
みんなで赤信号を平気な顔して渡っているのだ。
フロムの言う「権威主義的性格」(=強い者に弱く、弱い者に強く出る)
は、日本人の伝統的な「社会的キャラクター」ではないか。
一人ひとりが「個人として考える」ことをせず、
巨大メディアという権威になびき、何も考えず、ただ空気に流され同調していく。
その先に見えているのは、破壊=戦争しかない。
結局、カネや知名度という権力にヘーコラして、
「みんながそうだから」と言い訳しつつ、
自らを見つめることから逃げている。
おのれの悪や歴史的責任から目を逸らし、権威に身を委ねる。
その結果、
ほんとうの自由から逃げ、おのれの個性や自立、クリエイティビティが失われ、
ひとの形をしたモノになっていくのだ。
なるほど。ここまで書いてきて、わかった。
そういう「中身からっぽの人形」を映しだしているのが、
いまの日本のCMだったのか。
あの奇怪な登場人物やキャラクターは、
鏡にうつった日本人自らの姿だったのだ。